映画"虐殺器官"の感想

今日、2月3日から公開の映画"虐殺器官"を観てきた。

この作品は、伊藤計劃著の小説"虐殺器官"。舞台は9.11のアメリカ同時多発テロの後、サラエボ自爆テロを契機に世界中で内戦が多発している近未来。

 この世界中の内戦は虐殺器官を操る1人の男"ジョン・ポール"によってひきおこされている。物語は、米軍特殊部隊に所属するクラヴィス・シェパードがジョン・ポールを捕獲する命令を遂行するものである。その過程で虐殺器官の謎、ジョンが殺戮を繰り返す同期が明らかになっていく。

 

ここからは、私が映画・原作を読んだ感想だが、伊藤計劃氏の設定は非常に刺激を受ける。本作でも、人工筋肉、ナノマテリアル光学迷彩、生体認証による監視社会など今の技術からかけ離れすぎてもおらずその発想力には感服する。

しかし、一番の見所は人間の根源を哲学させるところにある。

今回の哲学は自由の選択にある。クラヴィスプラハの潜入調査で行ったナイトクラブでの店長との会話で語られる"完全な自由などない、何かの対価で自由で自由が手に入る。この世の中は完全監視の対価をはらい、テロによる不安から開放される自由を手にいれた。"は、非常に印象的だ。

支払う対価が得られる自由に釣り合わない場合、反発がおきデモやテロにつながっていくのだろう。

今は人の行き来の自由(グローバル化)を得るために支払った民族性、歴史、仕事などの対価は釣り合っていなかった。それが昨今の不寛容さとレッテルが貼られているポピュリズの台頭ではなかろうか。日本もグローバル、グローバルと叫んでいるが、支払う対価を精査する必要がある。もし、不均衡がおおきいと、アメリカやイギリスにみるような悲劇がおきるだろう。

今の社会を効果とその対価でみるいい機会になった。